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行く川の流れは絶えずして - 「生物と無生物のあいだ」

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2年近く前のベストセラーですが、最近また読んだので振り返り。やはり面白いですね。

生物と無生物のあいだ

本書では、そもそも生きているとはどういうことかという疑問から出発し、様々な研究の内容をその研究者のストーリーを交えながら、ある見解に到達するまでを追っています。
DNAの存在や意味を追及していくくだりも、人間関係なども絡めてスリリングに読めて面白いのですが、やはり本書の白眉は「動的平衡」に迫る部分でしょう。
「動的平衡」については、同じ著者によるそのものズバリな書籍が最近刊行されていますね。
これは、ミクロな観点では物凄い勢いで破壊と生成を繰り返しているものの、それが丁度バランスしているため、マクロな観点ではパッと見て変化していないように見える状態のことを指しています。
そして著者は、この「動的平衡」こそが「生きていること」なのだと言います。
私たちが物を食べたとき、お酒に限らずそれらはあっという間に我々の五臓六腑に染み渡り、細胞のタンパク質や脂肪の中に溶け込んで、代謝された結果が排泄物として出ていきます。
私たちの細胞は常に破壊され続け、そして創造され続けることによって、「ここに居続ける」わけです。
これは、まさに「動的平衡」です。生きていることは、流れ続けていることなのですね。
このくだりを読んだとき、私は鴨長明の方丈記を思い出しました。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
私たちが目にする川の流れは、いつもそこに同じようにありますが、流れを形づくる水は常に移り変わっています。世の中には、何一つ変わらないものなど無い、儚いものだなぁと言っているわけですね。歴史に名を残すような人は、やっぱし鋭いぜ(唐突に)。
私たちの生命は、動的平衡を形づくる奇跡的なバランスの流れによって維持されています。本書ではノックアウトマウスを使用した実験を例として、DNAの欠損というアクシデントに対して、この常に変わり続けるという「動的平衡」のメカニズムが如何にうまく対処するかを説明します。
ところが一方で、この柔軟なシステムが仇になり、歯車が欠けるようなレベルの欠損が私たちに及ぼす悪影響も著者は示します。これは、「眠れない一族」で挙げられていた異常プリオン型の病が拡大していく理由を、まさに説明してくれるものです。
私たちの生命を成すこの「流れ」は、極めて柔軟・強靭でありながら、その奇跡的なバランスを平衡させる綱渡の上に成り立っているわけで、ひとつピースが狂えば崩れてしまうような、とても儚いものでもあるのですね。
この事実は、何百年も昔の鴨長明が感じた無常感と似たようなものを、科学が発展した現代の私たちにも感じさせるようにも思います。
科学や学問が発展する歴史を見ると、私はいつもループのイメージを喚起されます。
古代ギリシアにおいて学問とは、神、そして神が作り出した私たち人間とは何か、という人間の存在自体を問うような大きなテーマの哲学的探究だったと言います。そこに、文学的な面や数学的な面、全ての観点が含まれていたのですね。
そのような混然一体となっていた学問を、今から2300年ほど前にアリストテレスが体系化して以来、それぞれの学問は、自然科学、数学、文学など専門的な発展の道を進んでいくことになりました。
その結果、現代ではそれぞれの学問がその専門性を更に先鋭化させていますが、専門性が行き着いた先に、様々な学問で同じような問題にぶつかっているように思うのです。
例えば、物理学の発展は量子物理学の扉を開きましたが、量子の振る舞いに関する議論では、単純に量子に閉じた話では完結できず、量子の観測者である私たち人間の認識や存在といった、ある種哲学的な問題が絡んできます。
また生物科学の発展によって、遺伝子操作によるデザイナベビーやクローニングが技術的には可能になりつつありますが、人間としての倫理的な壁にぶつかり、その是非について様々な議論が続けられています。
結局、学問はその発展を究めると、私たち人間自身の在り方という、アリストテレスによる分化以前の神学に回帰していくのかもしれない。
鴨長明の感じた無常感と、「動的平衡」である私たちの生命が繋がっているように見えるにつけ、そのように感じられるのでした。

本書では、そもそも生きているとはどういうことかという疑問から出発し、様々な研究の内容を、それを巡る研究者のストーリーを交えながら追っています。

DNAの存在や意味を追及していくくだりも、人間関係なども絡めてスリリングに読めて面白いのですが、やはり本書の白眉は「動的平衡」に迫る部分でしょう。

「動的平衡」については、同じ著者によるそのものズバリな書籍が最近刊行されていますね。
これは、ミクロな観点では物凄い勢いで破壊と生成を繰り返しているものの、それが丁度バランスしているため、マクロな観点ではパッと見て変化していないように見える状態のことを指しています。

そして著者は、この「動的平衡」こそが「生きていること」なのだと言います。
私たちが物を食べたとき、お酒に限らずそれらはあっという間に我々の五臓六腑に染み渡り、細胞のタンパク質や脂肪の中に溶け込んで、代謝された結果が排泄物として出ていきます。

私たちの細胞は常に破壊され続け、そして創造され続けることによって、「ここに居続ける」わけです。これは、まさに「動的平衡」です。生きていることは、流れ続けていることなのですね。

このくだりを読んだとき、私は鴨長明の方丈記を思い出しましたよ。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

私たちが目にする川の流れは、いつもそこに同じようにありますが、流れを形づくる水は常に移り変わっています。世の中には何一つ変わらないものなど無い、儚いものだなぁと言っているわけで、ズバリですね。歴史に名を残すような人は、やっぱし鋭いぜ(唐突に)。

極めてどうでも良い話ですが、私は鴨長明の「方丈記」と、

  • 松尾芭蕉の「おくのほそ道」
    • 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
  • 吉田兼好の「徒然草」
    • つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

がいつもごっちゃになります。「月日は百代の過客にして、しかも本の水にあらず(徒然草)」みたいな。私だけか…。

閑話休題。
私たちの生命は、「動的平衡」を形づくる奇跡的なバランスの流れによって維持されています。本書ではノックアウトマウスを使用した実験を例として、DNAの欠損というアクシデントに対して、この常に変わり続けるという「動的平衡」のメカニズムが如何にうまく対処するかを説明します。

ところが一方で、この柔軟なシステムが仇になり、歯車が欠けるようなレベルの欠損が私たちに及ぼす悪影響についても著者は示します。これは、「眠れない一族」で挙げられていた異常プリオン型の病が拡大していく理由を、まさに説明してくれるものです。

私たちの生命を成すこの「流れ」は、極めて柔軟・強靭でありながら、その奇跡的なバランスを平衡させる綱渡の上に成り立っているわけで、ひとつピースが狂えば崩れてしまうような、とても儚いものでもあるのですね。

この事実は、何百年も昔の鴨長明が感じた無常観と似たようなものを、科学が発展した現代の私たちに感じさせるようにも思います。

科学や学問が発展する歴史を見ると、私はいつもループのイメージを喚起されます。

古代ギリシアにおいて学問とは、神、そして神が創り給うた私たち人間とは何か、という人間の存在自体を問うような大きなテーマの哲学的探究だったと言います。そこに、文学的な面や数学的な面、全ての観点が含まれていたのですね。

そのような混然一体となっていた学問を、今から2300年ほど前にアリストテレスが体系化して以来、それぞれの学問は、自然科学、数学、文学など専門的な発展の道を進んでいくことになったそうです。

その結果、現代ではそれぞれの学問がその専門性を更に先鋭化させていますが、専門性が行き着いた先に、様々な学問で同じような問題にぶつかっているように思うのです。

例えば、物理学の発展は量子物理学の扉を開きましたが、量子の振る舞いに関する議論では、単純に量子に閉じた話では完結できず、量子の観測者である私たち人間の認識や存在といった、ある種哲学的な問題が絡んできます。

また生物科学の発展によって、遺伝子操作によるデザイナベビーやクローニングが技術的には可能になりつつありますが、それに伴って人間としての倫理的な問題が大きくクローズアップされ、その是非について様々な議論が続けられています。

結局、学問はその発展を究めると、私たち人間自身の在り方という、アリストテレスによる分化以前の神学に回帰していくのかもしれません。
鴨長明の感じた文学的な無常観と、「動的平衡」である私たちの生命が繋がっているように見えるにつけ、そのように感じられるのです。

Written by nen

June 27th, 2009 at 8:00 P

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