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普通の人であることの難しさ - 「ホテル・ルワンダの男」

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ホテル・ルワンダ」という映画があります。

1994年のルワンダ虐殺において、自らが支配人を務めるホテルに犠牲者を匿い、1200人以上の命を救ったポール・ルセナバギナさんという方の実話に基づく物語です。もともと国内での上映予定は無かったそうなのですが、Web上での有志の活動によって上映が決定されることになり、当時話題になりましたね。

本書「ホテル・ルワンダの男」は、そのポール・ルセナバギナさん自らが体験を記した本です。 原書のタイトルは「An Ordinary Man」で、「(どこにでもいる)あるひとりの普通の男」といった意味になります。本書の意図は、なによりもこのタイトルに表現されていると思います。まあ確かに、映画のタイトルを冠した方がキャッチーだと思いますけどねー…。

ホテル・ルワンダの男

ルワンダ虐殺の経緯、またそこへ繋がる背景として挙げられる、植民地支配のために仕立て上げられたフツ族・ツチ族の反目感情、助けを求める人々の声に耳を塞いだ国連と国際社会、事が収束するまで「ジェノサイド」という言葉を使おうとしなかったアメリカの思惑など、様々な文献やサイトで考察がありますので、詳細はそちらを見て頂く方が良いでしょう。

本書の1章~2章では、著者自身の家族や成長の話を通して、ルワンダの歴史や文化、そしてなによりもルワンダの人の考え方が説明されます。

ルワンダも他のアフリカ諸国と同様に、ドイツ・ベルギーから植民地支配を受けた歴史を持ちますが、「バナナビールの国」「アフリカのスイス」という著者の説明からイメージできるとおり、小さいながらも豊かな自然と穏やかな風土を持つ国であり、「草の上の裁判」「人を招き入れる」といったエピソードから、友情を育む気質を持った人々が住む国であることが伺えます。
そんな人たちが、どうして虐殺に関与するようなことになってしまったのか。

本書を読んでいて特に恐ろしいと感じるのは、常時触れるメディアによる刷り込みと、そこから生まれる疑念、そして思い込みです。

著者は、RTLM(Radio Television Libre des Mille Collines : 千の丘の自由ラジオ)というラジオからの放送が如何に酷い内容であったかを訴えます。
背が高いというツチ族の特徴を暗喩して「背の高い木を刈れ」、歴史的な経緯から不満を抱えていたフツ族を煽動する「自分の義務を果たせ」、こういったメッセージが、当時RTLMから繰り返し発信されていたのですね。
特に当時のルワンダで頻繁に触れるメディアのひとつはこういったラジオであり、その影響力が大きいものであったことも伺えます。

これらのメッセージはある意図を持った集団が発信しているものであり、ルワンダの虐殺が突発的に起きたものではなく、条件が整えられた上で引き起こされた事件であったことを示しています。そもそも、同一の民族であるツチ族とフツ族の対立も、植民地支配を容易にするために仕立て上げられたものであることを考えれば、情報やそれを発信する主体の意図を汲み取ることが如何に大事であるか、考えさせられます。

様々な情報に触れ、意図を汲み取り、それに対して自分の持つ倫理観に立って判断し、ニュートラルでいること。表層的な情報に踊らされず、異常な状態に陥ることなく、普通の人間として普通の判断を下すこと。
それが如何に難しいことか、自分がそうすることができるのか、本書を読むと空恐ろしく感じられます。普通の人間であることができず、昨日までの親しい友人や隣人が、手に鉈を持って平気な顔で人を殺していく様子が、本書では生々しく語られているのですから。

しかし一方で、そういった普通の人間であり続けた人の話も本書では紹介されています。著者自身もそうですし、彼以外にも普通の判断をして、人命を救った人が何人もいるのです。そういった人々は英雄ではなく、本当にありふれた普通の人々なのだということが、何より感銘を受けるところです。

友人が酒に酔っ払ったり調子に乗ったりして普段と違う言動や振る舞いをすると、私たちは「コイツ、普段は猫かぶってやがったな。本性はコレか」とそちらを真実の姿だと判断してしまいがちです。でも、人生の80%を温厚で誠実に過ごしている人を、たまたま異常な状態に陥った20%で「本性は酷い奴」と断じてしまうのはフェアではないですよね。
むしろ、その人の「普通」は温厚で誠実な姿であり、それが本当の姿なのだと考えるべきで、「異常」時の姿を100%と判断するのは、単なる印象に過ぎないということでしょう。

つまり、普段手のつけられない不良が、たまたま捨て猫に優しくしている光景を見たとしても、「ホントは優しい人なのね…(ぽっ)」とかなるのは間違いだ!ということですね(えー)。

虐殺の爪跡を考える

94年を挟んだルワンダの人口推移を見てみると、1994年の虐殺が如何に凄惨なものであったか分かります。

Rwanda PopulationHistoryCentral.com)より引用:

これは人口統計ですから、もちろん国外流出などの要因もあり、全てが虐殺による人口減ではないのですが、グラフで表現されると、余計に生々しさを感じてしまいます。

それまでの人口増分を見ると年間で16~7万人ですから、94年の本来の人口は約770万人くらいになるでしょうか。ルワンダ虐殺によって、80万人~100万人が虐殺されたと言われているため、人口の1割以上が殺されたことになります。その影響によって周辺国へ流出した難民は、50万人に及んだことが読み取れます。
これには、難を逃れたツチ族や、虐殺に協力的でなかったフツ族、また復讐を恐れて国外へ出て行った加害者も含まれるかもしれません。

その後の人口増を見ると、一旦は周辺国へ流れた人々が、またルワンダへ戻ってきている状況も見えてきます。前掲したHistoryCentral.comの記述を引用すると、

Rwanda’s population density, even after the 1994 genocide, is among the highest in Sub-Saharan Africa.

1994年の虐殺以降でも、ルワンダの人口密度はサハラ以南のアフリカ諸国の中で最も高い。

という記述があります。

また、現在のルワンダは、本書にも登場するツチ族主導によるRPF(Rwandan Patriotic Front : ルワンダ愛国戦線)が第一党として政権を担っていて、当時の紛争や虐殺に関する裁判も継続されているそうです。その裁判も、やはり勝者側(つまりRPF)への追求が曖昧なものになっているそうです。
人口流入や、それに伴って起きているだろう個々の人間関係レベルの問題も含めて、まだまだ虐殺の爪跡はルワンダや世界に大きく残されているということでしょう。

恥ずかしながら、私は本書を読むまで、こういった人類史上の重大事件をちゃんと認識していなかったし、その後始末がどのように行われているのかも当然知りませんでした。現在の世界の姿を正しく知るためにも、このような本に目を通しておくことは大事だと、改めて考えさせられました。

Written by nen

June 18th, 2009 at 10:00 P

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